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聖歌は生歌

聖歌は生歌

ミサ賛歌 歴史

このページでは、ミサ賛歌の歴史を概観してゆきます。ミサ賛歌は音楽用語では、主流となっている「ミサ曲」と呼
ばれるもので、一般に Kyrie=あわれみの賛歌、Gloria=栄光の賛歌、Credo=信仰宣言(通常、ニカイア・コンスタ
ンティノポリス信条)、Sanctus=感謝の賛歌、Agnus Dei=平和の賛歌、のことを指します。第二バチカン公会議に
いたる数百年の間、これらは、聖歌隊などが歌う、特別な聖歌として、セットで作曲されてきましたが、元来は、導入
された経緯も、時代も全く異なっています。これらが「ミサ曲」というセットで作られたもので、作曲者が分かっている
最初のものは、14世紀のギョーム・ド・マショー(マショーのグイレルムス)による四声の「ミサ曲」です。作者不詳の
最古のものは、13世紀末に作曲された「トゥルネーミサ曲」(ただし、Gloria,Credoは除く)です。この後、「ミサ曲」
は、教会音楽の歴史では、大きな役割を占めるようになりますが、典礼史から見ると、実は、大変、ゆがめられた形
をとるようになったのです。ここでは、音楽史とは異なった、典礼史の観点から「ミサ曲」の歴史を概観します。

【あわれみの賛歌】
 Kyrie eleison とギリシャ語で唱えられるあわれみの賛歌は、もともと、ローマの巡礼指定聖堂に行くまでの間、嘆
願の祈願を唱えながら、会衆が唱えた応唱でした。ローマ典礼でも、ギリシャ語が使われたことからも分かるように、
この賛歌は、もともと、東方教会から導入されたものです。東方諸教会では共同祈願として輔祭(助祭)が、意向を唱
え、その後に一同が "Kyrie eleison" と応えました。西方教会でも、5世紀、ゲラジウス一世(在位 492-496)の時
代に、共同祈願ではなく、開祭の部分で導入されます。このときは、意向が18あり、導入したゲラジウス一世の名を
とって、「ゲラジウスの嘆願」と呼ばれていました。後に、グレゴリウス一世(在位 590-604)の頃には、最初、週日
の、続いて主日の感謝の祭儀(ミサ)でも、伝統的な「共同祈願」と内容が重複することから、意向の部分が省略され
て、"Kyrie eleison. Christe eleison. Kyrie ekeison." だけを唱えるようになりました。7世紀末までは、教皇が終了
の合図をするまで、何回も唱えられていましたが、8世紀になると、"Kyrie eleison. Christe eleison. Kyrie eleison."
それぞれを三回ずつ唱えるようになり、以後、第二バチカン公会議まで、この形式が定着します。
 9世紀になると、この賛歌を三位一体の神に対する祈りと考えるようになり、最初の Kyrie は父である神、Christe
は文字通り、子であるキリスト、最後の Kyrie は聖霊への祈りという解釈が、典礼学者の間でなされるようになり、
信心書などによって普及してゆきました。中世末までには、この Kyrie や Christe と eleison の間に、それぞれ、
父、子、聖霊に対する祈願が挿入される(「トロープス」と呼ばれる)ようになります。現代でも、『ローマ・ミサ聖歌集』
(Graduale Romanum)の Kyriale のタイトルには、その名残が見られます。しかし、この頃から、他の賛歌と同様に、
会衆にはことばがわからなくなったことや、歌い方も複雑になってきたことから、聖歌隊(この頃は、教役者だけ)が歌
うものになってゆきます。なお、トロープスは Kyrie以外でも、多数作られましたが、典礼の本質とあわないものが作
られたりしたことから(教役者の批判など)、トリエント公会議で、すべて廃止されました。
 現在、Kyrie=あわれみの賛歌は、回心の祈りの後に唱えられますが「『回心の祈り』に第三形式を用いた場合に
は省く」(『ミサ典礼書』の典礼注記)ことになっています。あわれみの賛歌の本来のあり方を現在のミサの式次第か
ら考えると、回心の祈りの第一形式で唱える、「・・・・そして、兄弟の皆さん、罪深い わたしのために神に祈ってくだ
さい。」という嘆願を受けて祈るものです。ミサの流れを考えると、あわれみの賛歌は、回心の祈りの第一形式と結び
ついていることが分かります。なお、通常、Kyrie と Christe をそれぞれ二回ずつ繰り返しますが、第二バチカン公会
議前に作曲されたものも用いることができるように、三回以上繰り返すこともできます。さらに、各、応唱の前に、短い
トロープスを入れることができるようにもなりました(日本語では、間に入れると文章にならないので、先唱句になって
います)。あわれみの賛歌全体は、以前のように、三位一体の神への嘆願ではなく、すべて、主キリストへの祈りとさ
れています。呼格 Kyrie は、使徒たちの時代から、特に、パウロによって用いられたキリストへの尊称で、あわれみ
の賛歌の呼びかけは、使徒の時代、聖書の用法に基づいた、本来の使い方に改められたのです。
 
【栄光の賛歌】
 「最古の時代のキリスト教賛歌の、重要な形見」(J.A.ユングマン『ミサ』205ページ 福地幹男訳 オリエンス宗
教研究所 1992 )と言われる Gloria=栄光の賛歌は、初代教会で歌われた詩編の歌や聖書賛歌を模範として作ら
れた賛歌の一つです。このような賛歌は、主にシリア地方で作られたようですが、それらの中で、現在まで残る代表
的なものが、教会の祈りで歌われる Te Deum=賛美の賛歌と、この、Gloria=栄光の賛歌です。現存する最古のテ
キストは、380年頃の『使徒憲章』の中にあるもので、ギリシャ語で書かれています。少し時代が下って、5世紀に書
かれた、『聖書』のアレクサンドリア写本に載っているものは、ほぼ、現在と同じことばづかいになっています。このよ
うに、東方教会で発展した栄光の賛歌を西方に最初に紹介したのは、ポアティエの司教ヒラりウスと言われていま
す。
 栄光の賛歌は、最初、東方教会と同じように、教会の祈り(聖務日課)の賛歌として歌われ、感謝の祭儀で歌われ
るようになったのは6世紀頃です。冒頭の聖書のことば(ルカ2:14)から、最初は降誕祭の、しかも、ローマ司教の
司式するミサだけで歌われていましたが、シンマクス教皇(在位 489-514)が主日と殉教者の祝日に司教の司式す
る感謝の祭儀で歌うことを許可します。9世紀になると、司祭が司式する場合でも、復活徹夜祭だけですが歌えるよ
うになり、11世紀には、ほぼ現在と同じように歌われるようになりました。なお、これらの実践は、最初フランク王国
内(現在のフランス)で行われ、次第にローマでも認められるようになったようです。
 Gloria=栄光の賛歌も、最初は、他の賛歌と同様に、最初は会衆の賛歌として、簡単な旋律で歌われていました
が、次第に「ミサ曲」という音楽的な作曲の対象となり、祭壇近くの歌隊(聖歌隊)の歌うものとなってゆきます。ま
た、中世には長い歌詞にも関わらず、Kyrie=あわれみの賛歌などと同様にトロープスが作られるようになり、会衆か
らは、ますます遠ざかってゆきました。トロープスが廃止されたトリエント公会議後も壮大で華やかな曲が作られます
が、聖歌隊が歌っている間、司式司祭は、それとは別にひとりで唱えなければミサが無効になる、と言う、今では考
えられないような時代が続きました。
 現在、栄光の賛歌は「それ自体独立した儀式、または行為」(『ミサ典礼書の総則(暫定版)』37a)とされていること
から、あわれみの賛歌とのつながりは、かなり希薄になっていると言ってもよいでしょう。なお、冒頭の天使のことば
に象徴されるように、復活徹夜祭では、旧約朗読と集会祈願の間に置かれているます。
 栄光の賛歌は、大きく二つの部分に分けられ、前半は、父である神への賛美、後半は子であるキリストへの呼びか
けで、最後に、聖霊を含めた三位一体の叙述と「アーメン」で結ばれます。
 ところで、この区切りは、以前は、
propter magnam gloriam tuam.=主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る。
までと考えられていましたが、先にあげた、J.A.ユングマンの古写本などの研究により、次の
Domine Deus, Rex caelestis, Deus Pater omnipotens.=神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
が前半の区切りであることが分かり、現在の "Missale Romanum"edtio typica tertia でも、gloriam tuam のところ
は、ピリオドではなくコンマ「,」となっています。ですから、新たに栄光の賛歌を作曲する場合には、この区切りに従
わなければなりません。なお、このことは、ミサ賛歌1でも取り上げたとおりです。

【感謝の賛歌】
 感謝の賛歌は、ミサ賛歌の中で、唯一、旧約聖書からことばがとられています。前半は、イザヤ6:3にあるセラフィ
ムの賛美の歌声で、すでに2世紀にはユダヤ教の会堂礼拝で用いられていたことから、初代教会ではないにせよ、
かなり早い時期にキリスト者の共同体でも歌われるようになったようです。このことは、コプト(エジプト)典礼でも、ギ
リシャ語で歌われることから想像できます。というのも、コプト(エジプト)典礼はかなり早くに、聖書や典礼のことばを
自国語にしましたが、そのようなところでも、ギリシャ語のことばで残っていると言うことは、この賛歌がかなり古くか
ら、各地でギリシャ語で広まっていったと考えることができると思います。感謝の賛歌は、最初、朝の祈りの賛歌だっ
たようですが、東方諸教会では4世紀頃にかなり広い地域で、感謝の祭儀で用いられるようになり、5世紀には、西
方教会にも導入されます。東方教会で普及した頃は、Benedictus=ほむべきかな、以降はありませんでしたが、こち
らは西方教会で作られ(このことについては6世紀にアルルの司教だったカエサリウスが言及しています)、今度は、
東方諸教会に逆輸入されます。
 Sanctus=感謝の賛歌は、最初から叙唱を締めくくる会衆の歓呼の賛歌として歌われていました。グレゴリオ聖歌
の最も古いものでは、式次第と旋律を共有している(Kyriale18番参照)ことからも、このことが伺えます。しかし、北
欧で始まった歌隊(聖歌隊)が歌う習慣は、やがて他の地域にも広まり、他の「ミサ曲」と同様、11世紀には歌隊
(聖歌隊)だけが歌うようになり、トロープスも盛んに作られるようになりました。一方、司式者は叙唱の後、奉献文を
沈黙で唱えるようになったことから、聖歌隊は、司式者が奉献文を沈黙のうちに唱える間に、Sanctusの前半を歌い、
秘跡制定句の後に後半の Benedictus 以下を歌うようになりました。中世から第二バチカン公会議に至るまでの「ミ
サ曲」で、Sanctus と Benedictus が別になっているのはこのような理由によります。
 なお、余談ですが、司祭が秘跡制定句を沈黙で唱えるようになったのは、野原でミサごっこをしていた子どもたち
が、秘跡制定句を大きな声で唱えたところ、雷に打たれたため、大きな声で秘跡制定句を唱えると、神に雷で打たれ
るので、という、うそのような本当の話です。
 ところで、なぜ、北欧から歌隊(聖歌隊)が歌う習慣が広まったのかは、定かではありませんが、ひとつの理由とし
ては、北欧の人々は、ラテン語を理解できなかったことから、会衆全員が歌うことが少なくなったので、聖歌隊が歌わ
なければ祭儀が進まなかったから、と推測することができます。
 さて、現在、感謝の賛歌は、叙唱の締めくくりのことばからも分かるとおり、「感謝の祈り(奉献文)そのものの一部
をなして」(『ミサ典礼書の総則(暫定版79b)おり、叙唱の結びに会衆が歌う歓呼の叫びです。今後、感謝の賛歌を
作曲する場合には、今までのような「ミサ曲」と言う考え方でなく、奉献文の一部としての会衆の賛歌という位置づけ
をする必要があるでしょう。

【平和の賛歌】
 Agnus Dei=平和の賛歌は、7世紀の終わりごろ、教皇セルギウス一世(在位 687-701)によって、感謝の祭儀に
導入されたと言われています。この、セルギウス一世は、シリア人であったので、この賛歌もやはり、東方教会から
導入されたと考えられています。「神の小羊」という呼びかけのとおり、この賛歌は、キリストに向かう祈りであり、パ
ンを裂く=砕く間に歌うことから、主の受難、奉献の死を象徴するものがあふれていると言われています。
 かつて、感謝の祭儀で用いるパンは、現在のように、顕示用と会衆用との区別はなく、一つの大きなパンを全員分
に分けるのには、大変、手間も時間もかかりました。ですから、平和の賛歌は、パンを分割する間、会衆によって、何
度も繰り返されていました。しかし、信徒の会食(聖体拝領)がほとんどなくなり、司祭も共同司式をしなくなったこと
から、パンの分割も、平和の賛歌も形式的なものとなります。一方で、他のミサ賛歌同様に、歌隊(聖歌隊)だけが
歌うようになり、トロープスが作られるようになりました。
 現在、平和の賛歌は、パンを分ける間、必要なだけ繰りかえし、最後は、Dona nobis Pacem=われらに平安をあた
えたまえ、で終えるようになっており(『ミサ典礼書の総則(暫定版)』83参照)、元来の歌い方に戻されました。感謝
の祭儀の交わりの儀では、だんだんと、平和を主題にした祈りが、実現される時間と空間が凝縮され、平和の賛歌
では、キリストの体が裂かれる間、その、キリストが与えてくださる平和を祈り求めます。ですから、平和の賛歌は、こ
の、交わりの儀の中の、一連の祈りとして位置づけられます。
 なお、以前、死者のミサでは、結びの祈りが異なっていましたが、現在は、死者のためのミサでも、通常のミサと同
じことばを用いることになっています。
 
【信仰宣言〔ニカイア・コンスタンティノポリス信条〕】
 もともと、信仰宣言は、各地で、さまざまなものが唱えられていましたが、いわゆる「ミサ曲」では、ニカイア・コンスタ
ンティノポリス信条で作曲されてきましたので、ここでも、それを扱います。この信仰宣言は、キリスト論の問題につい
て、第一ニカイア公会議(325年)と第一コンスタンティノポリス公会議(381年)にそれぞれ教理決定された、キリスト
教の正当信仰を信仰箇条(信条)としてまとめたものです。どちらも、ギリシャ語圏で行われたものですから、ギリシャ
語が原文です。なお、その詳細については、キリスト論などの書物や『新カトリック大事典』の各項目を参照してくださ
い。もともと、信仰箇条として作られたものですから、主語は「わたくしたち」でしたが、ビザンティン典礼やローマ典礼
では、洗礼式の各自の信仰宣言でも用いたことから、この習慣が残ったまま、主語を「わたし」としたまま、感謝の祭
儀に取り入れられました。ですから、東方のビザンティン典礼以外の典礼では、現在でも「わたくしたち」のまま、用
いているところもあります。
 さて、信仰宣言は、このように、最初、洗礼式で用いられていましたが、5世紀末ないし6世紀始めに、コンスタンテ
ィノポリスの総主教ティモティオスが聖体礼儀(感謝の祭儀)に取り入れると、瞬く間に東方諸教会に普及します。た
だ、このときは、奉献文の始めにおかれました。西方教会で、最初に感謝の祭儀に信仰宣言が取り入れられたの
は、589年のイスパニア教会会議の時で、その後、アイルランドを経て、アルクィヌスによってヨークにもたらされま
す。さらに、彼がアーヘンの宮廷聖堂にもたらしたことから、カロリング王国全体に広まりました。
 ローマの教会では11世紀初頭まで、信仰宣言は感謝の祭儀の中で用いられていませんでしたが、1014年に皇
帝ハインりッヒ2世が戴冠式のためにローマを訪れた際に、信仰宣言が行われていないことに驚き、時の教皇ベネデ
ィクト8世に信条の採用を進言したことから、ローマ教会でもニカイア・コンスタンティノポリス信条が感謝の祭儀で唱
えられるようになったのです。
 信仰宣言は、ギリシャを除く東方諸教会では、全員で唱えるものとされていました。西方教会でも同様で、トゥール
の大司教ヘラルドゥスは858年に発布した『カピトゥラ(諸規定)』の中で、信仰宣言(信条)は、栄光の賛歌、感謝の
賛歌、あわれみの賛歌と同様に、「全員で歌われるべきもの」と規定していたことから、信仰宣言も最初は他のミサ
賛歌と同様に、簡単な旋律で歌われていたと推測されています。しかし、長いテキストでラテン語のことばが分から
なくなっていったことからでしょう、他の、ミサ賛歌同様に、歌隊(聖歌隊)だけが歌うようになります。ただ、内容が教
理決定された信仰箇条だったことから、トロープスは作られませんでした。
 現在、信仰宣言は、聖書朗読と説教に応えた会衆の応唱とされています(『ミサ典礼書の総則(暫定版67)』参
照)。なお、現在の『ミサ典礼書』では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の他に、使徒信条を用いることもでき、日
本の教会では、さらに、洗礼式の宣言を用いる許可も与えられています。

 以上、ミサ賛歌(「ミサ曲」)の歴史を、典礼の観点から概観してきましたが、いくつかのことが言えると思います。そ
れは、

ほとんどのテキストが、『聖書』を基本にしていること
どの、テキストも、元来は、東方教会が起源であること
西方に取り入れられてからも、当初は、いずれも、会衆の歌うものであったこと
そこから、旋律も簡単のもので、式次第との結びつきが深いと推測されること
ことばが分からなくなると、次第に、歌隊(聖歌隊)だけが歌うようになったこと

 このようなことから考えると、現在、『典礼聖歌』にあるミサ賛歌1(203~206)は、古来のミサ賛歌のあり方を取
り戻したものであると言えると思います。
 ところで、音楽史では、モーツァルトのミサ曲が長いと不平を言った、時のザルツブルクの大司教は、モーツァルトの
音楽を理解しなかった悪役とされていますが、典礼的に見れば、「ミサ曲」は本来、典礼=ミサの流れに従属するも
のですから、この大司教の発言は(音楽嫌いであったにせよ)、利にかなったものととらえることができ、「ミサ曲」本
来のあり方を分からなかったモーツァルトのほうにも問題があると言えるのです。
 
 最後に、繰り返しになりますが、現在の典礼での「ミサ賛歌」の考え方は、以前のように、これらの賛歌を「ミサ曲」
というセットではなく、それぞれの賛歌を、ミサの流れ=式次第の中で、前後の祈りと関連付けながら、位置づけてい
ます。東方教会では、典礼式文ごとに、モードが決まったものがあります。これからは、典礼文全体を、ミサ賛歌も含
め、統一したスタイルで作曲することが、典礼本来のあり方にふさわしいものにすることになると考えられます。その
意味で言えば、日本のミサの式次第とミサ賛歌1(203~206)は、全世界の教会の中で、その先駆けとなるものと
言えるでしょう。


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